今回ご紹介する作品はこちら!
村上春樹さんの初期シリーズ作品2作目、【1973年のピンボール】です!
後に大ヒットする『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』などを手がける前に書かれた、いわば村上春樹の原点ともいえる作品です。
シリーズ作品の中における橋渡し役と言われることもある作品ですが、読んでみるとすごく味わい深いメッセージがたくさんこめられていました。
2021年現在、コロナ禍で孤独を抱えている人が増えています。
人間的な未熟さ、孤独、別れ。様々な葛藤を抱える現代の人々にこそ読んでほしい一作です。
明日からラインで使える作品フレーズもご紹介しています!
それではあらすじ・感想をどうぞ!
あらすじ
僕たちの終章はピンボールで始まった
雨の匂い、古いスタン・ゲッツ、そしてピンボール……。青春の彷徨は、いま、終わりの時を迎えるさようなら、3(スリー)フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との<僕>の日々。女の温もりに沈む<鼠>の渇き。やがて来る1つの季節の終り――デビュー作『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く3部作のうち、大いなる予感に満ちた第2弾。
感想・考察
評価 7 / 10
本作は、前作から続いて主人公の”僕”と”鼠”、そして僕のもとにどこからかやってきた”双子の姉妹”と3フリッパーのスペースシップのピンボールを中心に物語が構成されています。
物語についての感想に触れる前に。
村上春樹作品の女の子ってすごい魅力的ですよね(笑)
今作の双子の姉妹は特に、実体がないような儚さがありつつも心の中でずっと生きているような存在に感じました。
つかまえてはみたものの、どうしたものか僕にはわからなかった。後足を針金にはさんだまま、鼠は4日めの朝に死んでいた。彼の姿は僕にひとつの教訓を残してくれた。
物事には必ず出口と入口がなくてはならない。そういうことだ。
これは「僕」の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。その秋、「僕」たちは七百キロも離れた街に住んでいた。
一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。
一番深くこころに残って、この物語のテーマともいえる文章。
入口からひょいと入ってみたけれど、どこにも出口に続いていない。
僕や鼠からすると、出口がなければ文章を書く意味なんて何もないということは、いまだに見えない出口を書くという行為で模索しているんだと思いました。
僕にとって死別してしまった”直子”、鼠にとっては設計事務所の”彼女”や行きつけのバーの店主”ジェイ”。
青年期特有の喪失感に加え、女性との別れが彼らの毎日をより出口の見えない退廃的なものに誘ってるのかなと。
前作の『風の歌を聴け』では僕を中心に描かれていましたが、今作では僕視点と鼠視点の両方から描かれています。
そこで読んでいてこんなことを。
僕と鼠は同一人物?
僕と鼠それぞれ別パートで書かれており別の人物ではあるんですが、感情や体験を共有している場面がすごく多いんですよね。
連動して雨が降ったり、ともに同時期に別れを経験したり。
直子の死によって人生を悲観する僕がなんとか自分を保つことができていたのは、まぎれもなく鼠の存在。
今作で僕と鼠は分断された生活を営んでいますが、鼠との別れ=自身の喪失を表現しているように感じました。
配電盤と双子の姉妹
アパートの配電盤が壊れて修理に来ますが、修理屋が配電盤についてこう表現しています。
なんていうかね、お母さん犬が一匹いてね、その下に仔犬が何匹もいるわけですよ。
~それでそのお母さん犬が仔犬たちを養っているわけです。…お母さん犬が死ぬと仔犬たちも死ぬ。だもんで、お母さんが死にかけるとあたしたちが新しいお母さんに取替えにやってくるわけなんです。
ここでいうお母さん犬は物事の核にあたり、僕でいうとお母さん犬の部分が直子の死によってこころが壊れています。(配電盤が直子や鼠自身という考えもできますが)
双子の姉妹はちょうど配電盤が壊れた時にフラッと僕の家にやってきました。
そして、配電盤の葬式を終えるとまた、帰るべき場所に帰ると言い残しいなくなります。
そうすると、この双子の姉妹は僕のこころを支えるための精神的な存在だったんでしょうか。
直子や鼠との別れに対してのけじめがついたとき、僕のこころの出口がすこしだけ見つかったんだと思います。
直子という重要性
このシリーズを読んでいて思ったんですけど、一応僕目線でずっと描かれている中で、登場人物の名前が僕だったり鼠だったり双子だったり、どこか輪郭がない。
そんななか、直子だけが名前で呼ばれています。
それほどに彼女の存在が大きく、死別してしまったことでより大きなかげを僕に落としているんだなあと。
3フリッパーのスペースシップも、直子の死を直面できない僕が直子として投影したもので、いたずらにピンボールに明け暮れていたんだと思います。
最後の養鶏場のシーンは色彩を多用していたものとはうってかわって現実的。
けれども、最終的に僕の、直子の死に対する苦しみや孤独がすこしばかり拭えたようでよかったです。
明日から使えるラインフレーズ!
「彼女とはどうなったの?」 「別れたね。」 「幸せだった?」 「遠くから見れば、」
だれにだって一度はつらい別れがあります。
パートナーとの別れがいつだって綺麗なものではないです。
別れについて楽しかったか聞かれた際、直接的な表現を使うのではなく
『遠くから見れば』
と、返信しましょう。
コメント