牛丼は人を分かつ。そう思ったことが先日あった。
ぼくは牛丼が大好きだ。その中でも特に松屋は格別である。
卓上の調味料のバランス、無料で添えられる味噌汁、そして味・価格・親しみやすさ全てで満足度の高い牛丼。
カレーの魅力だって語る余地があるならいくらでもはなせる。
松屋の牛丼に生卵をかけて、七味をふんだんに振りかけた味噌汁とともに食べる瞬間は実家以上の安心感を思わせる。
ぼくがもしビルゲイツくらいお金持ちになったら、来客者に卵のトッピングをサービスする財団を設立したいと考えている。
このくらいには松屋を筆頭とした牛丼屋が好きだ。
学生のころはお金もなく、松屋は唯一気兼ねなく食べに行ける飲食店だった。
扉を開けばお金のない自分でも満腹になれる夢のような場所だった。
社会人になっていくばくかの経済的余裕を手に入れたが、愛情は失われなかった。
むしろ学生時代では挑戦できなかったトッピングに趣向を凝らすことも多い。
そんななか頻繁に起こるのが(ぼくの周りだけかもしれないが)牛丼チェーンどこが一番おいしいか論争だ。
大きく4手にわかれる牛丼チェーンはぼくの周りでおもしろい位に票が分断し、互いに自分の優位を主張する。
時には過激派も現れるが、この議論はむしろ好きだ。
どこに所属していようが結局牛丼が好きな人の集まりだし、なんだかんだ分かり合える。
ラグビーのノーサイド精神で互いの牛丼を讃えあうのだ。
しかし、このまえすこぶる不快なことが起きた。
街のカフェで作業をしていると、サラリーマン風の2人が少し大き目な声で談笑している。
いわゆるバリバリ働きまっせ!といったタイプで、愚痴風自慢などがしばし展開されていた。
なんとなく聞き流していたのだが、聞き流すことを許さない文言が聞こえてきた。
「〇〇が牛丼屋の~ってメニューがうまいだとかなんとか。けど、牛丼屋で満足してたら人生終わりだよな(笑)」
そこから先は作業が手につかなかった。
牛丼屋で満足してたら人生終わり?
終わってんのはお前らの方だよ。
面と向かって言ってやりたいくらい腹立たしかった。
値段が高いだサイトで評価されているだ他の誰かが決めた指標にとらわれるのではなく、目の前のものをおいしいと感じるかが大事ではないのか。
日常のささやかな食に幸せを感じる方がよっぽど人生得していないか。
さすがに知らない人間に牛丼をトリガーに口論をふっかけたら警察を呼ばれてしまうのでぐっとこらえてその場を後にした。
ほとぼりが冷めて気づいたのだが、ここまで他人の会話にイラついたのは人生ではじめてだ。
イライラの正体が気になって試しに文献を漁ると、どうやらこれはフード左翼・フード右翼と呼ばれる現象らしい(フード左翼がぼく)。
すごーく簡単に説明するとフード左翼はジャンクなものも好んで食べ、フード右翼は自然由来のものだったり健康的な食事をとる人々だ。
今回に関してはフード左翼に分類されるぼくの偏った事例の偏った意見かもしれないが、実際問題ふたつの対立軸に良いも悪いもない。
ただ、対立している事実がある。
そこだけは明確だ。両者が重なる領域は極めて少ない。
特に日本では宗教や政治的なアイデンティティを持つ人が少ない。若年層になればよりその傾向が強まる。
しかし、食においては独自のアイデンティティをもつ。
どこかでもしかすると一緒に仕事をするかもしれないサラリーマンたちと、食のアイデンティティにおいてぼくは完全に分断されてしまった。
出会い方が異なっていれば友人になっていたかもしれないその人たちとぼくは距離をとった。
むかしは政治と野球の話を人前でするもんじゃないと言われた。
政治だったり宗教だったりエンタメがよくもわるくもその機能を失いつつあるいま、
自分の食の好みを簡単に話すなと言われる時代はそこまできているのかもしれない。
最後に唐突ですが、僕のエッセイと同じくらい読み応えがある本を紹介します!
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