最近、バリアフリーという言葉をよく見るようになった。
あらゆる人が使用することを想定して、利用する障壁を取り除く施設や商品などを指す言葉だ。
バリアフリーが浸透していくことは大いに結構なのだが、これはいかがなものかという場面に先日遭遇した。
商業施設のトイレを利用したときのことである。
男子トイレには小便器がずらりとならんでいる。
そのわきに一つ、子ども用の小便器が置いてあった。
それだけ見ると、おおいに結構なのだが、その形状に違和感を覚える。
子ども用小便器の高さ自体は低いのだが、小便を入れる部分の縁(トイレメーカーのHPで調べたところ、タレ受けというらしい。以下タレ受け)の高さは、大人用のものと変わらない。
ここで、子どもが小便器と立ち向かう上でのバリア(障壁)を考える。
子どもが大人用の小便器と対面して困るのは、小便器の陶器自体の高さが高いからではない。
タレ受けの高さが高いのが問題なのだ。
どれだけ小便器自体の高さが低くなっても、タレ受けの高さが変わらなければ、子どもにとってバリアは残されたままだ。
見せかけのバリアフリーに踊らされ、小便に苦悶する子どもたちの幻霊が浮かんで見えた。
しかし、大人たちはこのトイレを作るにあたって、子どものためのトイレを作ろうと思って、バリアフリーを達成しようとして、このトイレを完成させた。
僕がこのバリアに気づけたのは、子どもの時代を思い出して偶然気づけたにすぎない。
子ども目線でバリアフリーが作られていないことに憤慨していた僕も、きっとエセ・バリアフリーを見過ごしていることが多々あるのだろう。
自分がサービスの利用側から提供側にうつったときは、ユーザー目線で本当のバリアフリーを作っていきたい、と思いながら男子便所の壁をジッと見つめていた。
バリアフリー云々の話だけではない。
友人関係も恋愛でもそう。
自分の施しが、独りよがりになっていないか常に気をつけないとな。
商業施設のトイレを出た後の世界は、少し爽やかに広がった。
いや、トイレから出ただけか。
本当のユニバーサルデザインについて、もう少し考えてみたくなった。
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